ハリー・ポッターと賢者の石を洋書で呼んだ。
内容については説明不要であろう。
私が中学生だったころ、ハリー・ポッターが流行っていた。私自身、当時読書なんて皆無であったのに、暇を見つけては、分厚い上下巻に分かれた炎のゴブレットを読み漁っていた。
ハリー・ポッターと賢者の石は、残念ながら今まで本という形で読んだことはなかった。しかしながら、映画版はDVDで飽きるほど見ていたため内容はしっかりと覚えている。
中学生の頃の私は、純粋に魔法という世界に憧れていたように思う。ファンタジーをテーマとしたゲームが大好きだったし、そういう世界があったらなあというどこか逃避的な願望は確かにあった。そして、映画版「ハリー・ポッターと賢者の石」は、まさにその願望を満たしてくれるものだった。ハリー・ポッターの世界では、魔法使いではない人々と魔法使いの人々が住み分けられている。同じ世界でありながらお互いに出来るだけ干渉はしない。そもそも魔法使いではない人々は、魔法社会が裏で営まれていることなど知りもしないのである。これは、当時の私にはどこかしらリアリティを感じさせたものだ。ファンタジーの世界なんて存在しないことはわかっている。それでも、ファンタジーの世界が存在してほしい。そういう現実と願望のなかで、それを描いたのがハリー・ポッターだった。
今の私は20代半ばを迎えつつある。中学生になるまでの年数と同じ年数が経ったことになる。そして、同じ作品にもう一度触れて、感性も変わっていることに気づいた。ハリー・ポッターは、赤ん坊の頃から有名人であった。魔法使いの世界では、知らぬ人はいないというほどに有名である。しかし、本人は自分が有名であることをまったく知らなかった。過去にヴォルデモートから生き延びた唯一の赤ん坊、ただそれだけの理由で誰よりも期待され、特別な存在として扱われた。期待、羨望を一心に受ける時、人はどんな気持ちがするのだろうか。心地よくは感じまい。戸惑い、期待に応えようとする過程で、焦りを感じ不安に押しつぶされてしまうかもしれない。それでも、私はハリーが羨ましいと思った。
ハリーと私は対照的だった。彼は、期待される存在、有能と謳われる存在だった。そして、その期待に応えるだけの勇敢さを持ち合わせていた。対して、私は期待されたことなど一度としてなかった。最初から期待などされていなかった。それがたまらなく悔しかった。
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